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Chapter.06

博報堂 関西クリエイティブ アートディレクター

上野 仁志さん

”ビジュアルの力、一枚の絵の力を信じたい。それには人を動かす何かがあると思うから。”

告の仕事はクライアントのお手伝いです。博報堂が勝手に広告を作るのではなくて、クライアントの意向に基づいて我々が答えを出すのです。まずはクライアントが満足してもらえるものを提供する。それが一般の人達にも受け入れられるのにもなるのが一番です。広告は必ず必要かといえば、そうでもない。クライアントの立場からしてみれば、商品を作って、広告なんて作らなくても商品が売れるという状態が一番いい。広告を作ることによって利益が削られるわけだから。けれど広告を作った方が、利益が増えるという判断があるからこそ広告を作っているのです。広告にお金を先行投資しているので、我々はそれに応えていかなければなりません。

 僕は東京での生活の方が長いです。とはいっても会社人生からすれば、東京時代が13、4年、関西に来て10年ぐらいになるのでもう半々くらいにはなります。東京時代は情報誌や、車メーカーやトイレタリーなどの仕事が多かったです。関西に来てからは、インフラ系の電力会社とか通信会社とか、電機メーカー、製薬メーカー、あとはこれまで取引があまりなかった会社を開拓する仕事をしています。規模的に一番大きかったのは車かな。ある車メーカーの新車発売に合わせて広告キャンペーンの全てを作るという事をやりました。東京時代のことですけど。

 広告はコミュニケーションなので、常にそれを念頭において考えています。具体的に指示される場合もありますし、具体的な要素がすごく少なく、考え方から提案してくれという場合もある。「いい」「悪い」の基準というのは広告の受け手である生活者がどういう風に見るか、感じるかということだと思います。それに対してクライアントの意向が、一致していればいいのですが、一致していない場合は、どう違うのか、どう伝えるべきなのかという事を整理して提案します。博報堂は、クライアントが全部正しくてそれをそのまま形にそればいい、とは思っていません。提案までする、そこまでが私たちの仕事だと思っています。「余計な事やらずに、言われたことだけやれよ」というクライアントももちろんいますけど。基本的に話し合いの中で作っていきます。

 

学生時代

 

 学生時代は東京藝術大学のデザイン科に在籍していたので、そこでデザインを学んでいました。何がデザインなのか探すために、毎日何か作っていました。分からないまま学校にいてずっと何かを作っていました。その頃は楽しかったですよ。誰かのためにというより自分のためにずっと描いていました。作品はすべて自分のため。藝大の先生では福田繁雄氏だったり、佐藤晃一氏だったり、松永真氏から指導を受けました。3氏はそれぞれ日本を代表するグラフィックデザイナーとして華々しく活躍されていた方々です。作品を制作する上で具体的な指導方針というのはあったようでなかったようなものだけれども、先生方が世の中で実際にやられている仕事が参考になりました。先生方の作品をみて勉強したという感じです。誰かに何かをぶつけたいというよりも、自分は何をしたいんだろう、何が好きなんだろうという事を一生懸命探していました。19、20歳の頃はそうでした。

 藝大のデザイン科は1学年45人くらい。藝大の中では人数が多い学科でしたが学校にはすぐに馴染めました。普通、大学って授業ごとに教室を渡り歩くような感じですよね。でも東京藝大は高校や会社みたいに自分の机があるのです。そこが自分にとって制作する場になるのです。朝学校へ行くと、まず自分の席へ行きます。そこには作りかけの作品なんかが置いてあって、続きを始めたり、新しいものに取りかかったりして1日の大半を過ごすのです。その合間に学科の授業や講義を受けに行くという感じかな。だからみんないつも一緒にいるのよ。高校のクラスみたいなものです。最初は机も高校の教室みたいに一方向を向いて、あいうえお順にきれいに並んでたんだけど、2,3ヶ月もたてば、自分たちでレイアウトを変えて、木の机だったのだけど真っ白に塗ったりピンクに塗ったり、居心地のいいようにどんどん変えていって、個性が出てくる。それが面白かった。学校で教わったこともいろいろあったけれども、一番は同級生の作品を見て、変化を目の当たりにできた、そういう状況にいられたというのが一番勉強になったかな。

 1年では全員が一部屋で基礎的な勉強をし、2年からは平面と立体の2つに分かれました。3年からもう少し細かく分かれまして、4年になると5つに分かれました。ビジュアルコミュニケーションと、藝大ならではの形成デザインというコース、それに構成デザイン、プロダクトデザイン、環境デザインという5つのコースに分かれました。それぞれ専門の先生がいらして、1コースに対して2つの研究室がありました。だから厳密にいうと10個のコースに分かれていました。

 

進化を目のあたりにできる環境

 

 最終的には、一つの教室に5、6人位になった。一生つき合える友達といえるし、その分確執もありました。それは普通のことで、基本的に創作活動というのは個人的なもの、みんな自分の世界が一番いいと思ってるじゃない? そこに侵食してくるものを拒むというのはあるよね。ただ、干渉しあって自分の世界が良くなるという事も事実としてあるから、みんな言い合ってましたよ。「ここがすばらしい」とか「ここがぜんぜんだめだね」とか。それを受け入れる人もいれば、そうじゃない人もいる。大前提には意見を言うのはよしとして、言うからには、自分は何をやっているのかという事を示すことが求められる。ないと説得力がなくなる。言葉で言うのではなく作品だよね。自分はどうなのかとか問われるのは当然。僕らは作品で表現していたから、学校へ行けば作品を描いているわけです。何も喋らなくても、一日中横にいればこいつがいま調子いいとか、悩んでいるとか、なにか新しいものを見つけたなとか分かります。向こうも僕の絵を見ているし、喋らなくてもなにか共有しているものを感じる、そういうのがよかったです。

 絵のテクニックやデッサン力がすごくあって、その点では敵わないなと思う奴もいたり、すごいコンセプチャルだけど、絵が未熟で形になってない奴がいたり、絵を描かないで人形を作ったり、照明器具を作ったりしている奴もいた。照明器具を作る気はないからそれは見ないとか、絵を描く気はないから絵を見ないとかはなかったな。それぞれの中の進化や進展度合いがあれば、それを認めて評価しようじゃないかという意識はみんな持っていたと思います。アニメ作品の絵をすごく上手く描くやつがいて、でもそれは彼のオリジナルではなくて、既に世に出回っているものじゃないか、何やっているんだよと僕は半分軽蔑していたんです。でも、ずっと見ているとどんどん進化していって模倣がオリジナルになってく過程が見えてくるんです。オリジナルになって世の中に存在しない新しい作品になっていく。僕はその絵自体はあんまり好きじゃなかった。好きじゃないけど、その進化と成長具合は「すごい」と思っています。同じ時期にここへ来て、その期間の自分の成長ぶりに比べれば、そいつはすごく成長しているなとか、いろいろ感じて触発される訳です。でもやっぱりその絵は好きじゃないけどね(笑)。だって絵を描く者にとってはやっぱり自分の絵が一番だから。中には何にもしてない奴もいたけれど、何しているか分からないから接触できないよね。世間話とか会話程度ならできるけど、分からない人っていう風に認識しちゃうから。作品がアイデンティティーというか作品を通してコミュニケーションを取っていました。周りの連中それぞれ領域は違えども、同じ空間で自分の好きなものを追及しているというのがいい刺激になった。僕は大学院まで進んだので、大学と大学院の都合6年間、東京藝術大学にいました。それから博報堂に来たのですが、博報堂との最初の出会いは、学生時代に六本木にあるパッケージデザインなどをよく手掛けているデザイン事務所でお手伝いをしていた時に、東京駅の前にある博報堂という会社に届け物をしたのが初めてです。その時の感想は、机が一方向にダァーッと並んでいて、いかにも「会社」っていう感じでした。まさかその会社に行くことになるとは、その時はまったく思わなかったなあ。

 

やりたい事を続けていくために

 

 会社は入社試験を受けて、だめだったから来年またがんばろうっていうようなものではないと思っていました。是が非でも広告会社じゃないと嫌だとも思っていなかったし、すごく曖昧で、卒業したらどうしようかと考えていて、せっかく新卒だから就職できるかもしれないと思って。当時の藝大は、「就職する」とか言うと、「どうして?」という雰囲気がありました。やっぱりみんな、学生時代に自分がやりたい事をみつけて、この辺じゃないかなと感じていて、それを続けていきたいなという気持ちはあったと思います。それを続けられる環境っていうのがどこなのか、一生、大学のような環境で絵を描くことを続けられるなら、僕としてはそれで良かった。でもそうもいかない。大学という環境にはずっとはいられないし、生活していくためにはお金が必要だから。何かしら生活を変えなくてはいけない。学校に残るというのもどうだかな、ちゃんと社会を見ておきたいという思いもあった。学校ってそこにいるときは分からないけど、ものすごく狭い異質な空間だからね。同じような思考の連中しかいないし、一回外へ出て社会を見るのもいいんじゃないかなと思ったんです。それで博報堂を受けたら、来てもいいよと言ってくれたので来たという訳です。だから倍率がどのくらいだとかそういうのは全く知らない。それより、これまで突き詰めてきたものをもっと追究したかった。それができる環境がほしかったのです。

 

「終わり」と「完成」

 

 「完成」なんてないと思います。たぶんずっと追い続けていくしかないんだと。仕事では締め切りがありますが、僕は「完成」と「終わり」には全然違うイメージを持っています。「完成」っていうのはこれ以上手を加えることができない状態。この表現、この絵の中では、これ最高と思える時が「完成」かな。「終わり」は時間や費用でこれ以上できない状態になること。外的要因からくるもの。ビジネスでは自分勝手に作品を作っているのではないので、さまざまな要素を含めて仕事をするのが当然で、どちらかといえばそっちが大事だったりする。その条件の中でベストなものはこれだ、と見つけた時が「終わり」。僕はビジュアルの力、一枚の絵の力を信じたい。それには人を動かす何かがあると思うから。それが人生のテーマというと大げさだけど、こだわりというか、いつも頭の片隅にはあることです。

 

広告を作るということ

 

 制作した広告を見て、「気になる」と思う人が少しでも多くなるといいと思う。世の中の人は広告と作品という風に見分けているわけではなくて、きれいな空ときれいな写真の広告を同レベルでみていると思います。カッコイイ車が横を走って行ったのと同じような感覚で、カッコイイ広告を見ているんだと。文字がいっぱい入っていてもいい。単に文字いっぱい入っているだけだと、よっぽど興味のある人じゃないと読まないと思います。けれど、なぜか読んでしまう、とか。一枚の広告への滞在時間なんて2、3秒もないかも知れない。その間に見た人が気になって足を止めてしまう。それはやっぱり力のある広告だと思います。表現だけをとりあげれば、まだ作品として手を加える余地があるんじゃないかとか、まだ探れる部分はあるかも知れないと感じたまま世の中に出していくという事も、正直に言うとあります。予算と時間をかけて作品としての表現を追求したとしても表現物としては変わるかも知れないけれど、広告としての効果は変わらない、むしろ時間や手間がかかった分マイナスだとしたら、ビジネスとしてはやらない方がいいという判断になる。会社でビジネスとしてやるんだったらそういう考え方をする訳。そこの折り合いをつけるのが難しいところ。そういう事もあって、「完成」と「終わり」は違ってくる。そこのジレンマでもがくのだけれど、あんまり苦しまないようにしています。

 

セルフマネージメントも仕事のうち

 

 仕事をする上で大事なことは、こだわりです。こだわること。博報堂の仕事でもある程度経験を積めば、だれでもある程度はできると思うのですが、その中に制作者としてのこだわりを持てるかどうかというのが重要です。広告として必要かどうかは別としても、作品としてはやっぱり自分が手掛けていくものへのこだわりはなくてはならないと思うのです。ものを作っていると作業の止め時って、時間では決められなくなります。満足できるまで取り組んでいたら、気がついたら夜中の3時だったという事もある。作業していて、今日はこれ以上根つめてもいいものできないなと思ったときは、早めにあがるときもある。9時から5時までという決められた時間の中だけで仕事をして、それ以外は別の事をしているという働き方をしている人は、ここにはあんまり多くないんじゃないかな。

 自分が今与えられている問題を解決するためにここへ来ているという感じ。提出日が1週間後だとすると、それまでの時間をどう使うかは本人次第。1日2時間しか仕事しないで早く帰ってもいいし、毎日朝方くらいまでやってもいい。提出する時にすべてが現れる。結果がすべてなので、いいものが出せればいい。たとえ2時間くらいしか作業していなくてもいいものができることもあるし、200時間くらい考えたけれど全然ダメっていう事もある。結果を出すためにどう持っていくかというセルフマネージメントも仕事のうちなのです、当たり前のことだけれど。実際には2時間仕事をして帰る奴なんて先ずいません。納得いく形になっていなくて、もう少しでできそうだと思ったら、みんなそれを追求すると思います。満足できる形になった時、午前3時になっていたら結果的に3時まで仕事をしたという事になるけれど、そのことが重要なのではなくて、すべては提出するときの作品次第です。「もう8時だ」となった時、そこで止めるのか、止めてもいいんだけどね。朝の3時まで残ったのに8時の時と全然変わってなかったら、ちょっと嫌になるだろうけど。そうでなければ残る。どうせやるなら、やらないと。やっただけ作品に出るものだと思うから。納得いくまでやる。そういう仕事ですよ。

 今はクライアントへの答えを探しながら、自分のやりたい世界にこだわっています。自分を見つけるための作品は、入社したての頃、ちょっと作ったりしていたんですが、今はもう作ってないな。作りたいけど、そういう環境をもう1回構築したいけど、老後になるのかな(笑)。

 

プロフィール 

上野 仁志

うえの ひとし 1960年東京都生まれ。

東京藝術大学美術学部デザイン科、同大学院を経て、86年博報堂入社。14年間の東京勤務後、現在は博報堂関西クリエイティブセンターでアートディレクターを務める。

*本文中の日時・役職・その他各名称等はすべて取材時のものです。

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