Chapter.05
写真家
平間至さん
”写真を辞めようと思ったことはないね。ほかに何にもできないもん、きっと”
1997年から始めたタワーレコードの広告シリーズ「No music no life」はミュージシャンとミュージシャンが出会って、音楽を通した出会いの喜びを撮るというのがコンセプト。一人のときも全くないことはないけれど、基本的に誰かと誰かが出会う場面です。そこで初めてこの企画は成立して、さらに理解と愛情があって撮影するからこそ、しっかりとした関係性が描かれるわけです。撮影の時、場所と人は決まっていて、それ以外の現場のディレクションは僕が自分でやっています。僕はどちらかと言えば、打たれ弱い人間だと自分では思っていているので、そういう状況に陥らないように予防策として人一倍努力をしています。だから事前のリサーチも楽曲すべてを聴くというわけにもいかないけれど、聴ける範囲で聴いて、準備をしています。全部を聴かなくても、アルバム1枚のどこかにいいなと思えるところを見つけられれば、それでいい。役者さんの撮影をする時も同じで、出演している作品を全部観るなんて到底不可能だけど、何作か選んで観た中で、「このシーンがかっこいい」と思えるところがあればそれでいいと思うのです。どこか一つ共感できたら、そこを拡大解釈する。
恋愛だってそうでしょう? 好きな人ができて、好きでたまらなくても、その人の事を全部知っているわけではないでしょう。そういう時って相手の好きだっていう部分を自分の中で100パーセントにしちゃっているんだよね。もっと知りたい、一緒にいたいってそういう感じ。きっかけはそういうもの。楽曲でも演技でも、何でもいい。好きだなって思える気持ち。それは相手の全てじゃ、もちろんないけど、自分からみてこの人のこういうところが好きという事でいいんだと思います。恋人のことを完全に知っているわけじゃないでしょう? 撮影も全く一緒。恋愛の初期段階に近い感じ。僕は、仕事の内容にもよりますが、一人一人の撮影時間はすごく短い。写真の事を考えているのは、ほんとに数分とか。時間はもう全然かけない。打ち合わせも1時間以上は基本的にしません。写真の事を考えているのは数分とか、せいぜい10分くらい。2、3分で撮る時もあります。枚数もフィルム1、2本とか。自分の中で確信があるので、それ以上撮る必要がないのです。不安な人ほどたくさん撮ると思う。「撮れた」っていう確信がなければずっと撮り続けることになります。撮影をやめられないという状況に陥る可能性だってある。いつ頃からかは分からないですが、歳をとればとる程、どんどん撮影する枚数は減ってきました。撮影にかかる時間もどんどん短くなる。一日も早くなるけどね(笑)。
理解力と愛情
撮影の段階で、例えば2ページの仕事と、30ページの仕事で撮る量は全然違ってきます。表紙と中ページでも役割は違うわけですから。たとえば「ROCKIN’ON JAPAN」の表紙を撮るとしたら、何を読者に伝えたいのか、読者がどんな人か、表紙を飾るミュージシャンはどんなバンドで、編集の意図はどういうものか、そこに仲立ちとして立つ僕は何をするべきなのか。編集は編集で狙いがあるのだろうけど、僕は僕でミュージシャンと読者をどう繋ぐのかという事まで考えます。何も考えないで撮ったのと、考えて撮ったのでは決定的に違う。写真に差が出ますから、撮るときはそこまで考えないと。
どれだけ深く仕事を理解できるか。そして仕事にどれだけ愛情を持って接することができるのか。この2つがあったらどんな仕事でもやっていける。どんな仕事をやるにしても大事なことだし。マニュアルがこうだからとか、上司が言ったからという事じゃなくて、自分がここではどういう役割なのかという事をどこまで深く理解できるのか。そしてどれだけ愛情を持てるのか。その意識が仕事をするうえで一番大事なことだと思う。同じことをしていても、その意識を持つか、持たないかで全然違ってくると思うよ。仕事をするっていうことは責任をとるという事。もっと言うと、責任をとる覚悟を持って仕事をしているのかという事。大前提として、仕事にそういう気持ちで臨めるかどうかが大事だよね。それが仕事に誇りを持つという事につながってくる。臨めないような仕事はしない方がいい。僕も今やっている事はすべて僕にしかできないことだと思ってやっているから。本来仕事ってそういうものだと思うんだよね。マニュアル通りと言ったって、ほんとにマニュアル通りなんてできない。人生の3分の2は仕事で働いている訳だから、やっぱり夢中になれることをしないともったいないと思う。
仕事は自分で作るんだよ。与えられるものじゃなくて。最初は与えられるものかもしれないけど、自分で作っていく。考えて、行動して、仕事を作っていくんだよ。僕は写真を撮ることを愛しているから。愛してなかったらお金のためだけになっちゃうよね。全部愛せますか? と訊かれるけれど、「誰これ?」「よくわかんないな」って思いながらパシャパシャ撮るのって被写体に対して失礼でしょう。このミュージシャンのこと、大好きで、聴くたびに涙が出るんだ、それくらい大好きだっていう思いで撮るんだよ。
心を開いてほしかったら、まず自分が心を開くこと。撮る人と撮られる人というのは鏡の関係なので、もし笑顔の写真が撮りたかったら、まず自分が笑顔にならないと。すごくいい笑顔の写真があったとして、その写真を撮っている人が怒っているという事はあり得ないよね。笑顔の写真を撮っている人は笑顔なんですよ、例外なく。だからといって無理に笑うことはしない。無理に撮っても分かるから。現場自身を僕が楽しんでいるから撮られる方も笑顔になるし、写真を観た人も笑顔になれる。現場で起こっている事ができあがった作品を見た人にも伝わるんだよね、写真って。そこがまた面白い。
例外的だけど雑誌「POPEYE」でやっている「POPEYE Girls」という連載では、被写体のモデルのことを「よく分からないまま撮っている」という事をテーマにしていたりします。モデルは若い女優さんだったりするんだけれど、「へー、そうなんだ」って話しをしながらも客観的に撮っている。そこではあんまり思い入れをもって撮るのではなくて、客観的に撮るっていう事をテーマにしている。それはそれで面白いよ。さすがに撮る写真全部がそれじゃまずいけど、自分の中でそういうスタンスで撮るんだって決めて撮るのもいいと思うから。
ニュートラルな気持ちで撮るか、好きという思いを込めて撮影し、その気持ちを読者に伝える。そのどちらかだね。読者も好きな人が載っているから買うわけじゃないですか、700円も出して。相当好きじゃないと買わないと思うよ。その気持ちとシンクロしていく。
普通のものとしてあった写真
写真は、僕にとって全くの日常なので、特別な事をしているという感覚はありません。実家が写真館だったので、写真の中で生まれ育ったようなものです。日常の中のあらゆる場面に写真がありました。一般的には写真を撮ることって非日常じゃないですか? いわゆるハレの日に家族揃って、いい服着て、写真館へ行って撮るとか、旅行先で撮るとか、日常ではない場面で写真って出てくる。ところが僕の場合は、幼稚園ぐらいの時から、カメラ機材を運んだり、撮影の準備を手伝ったり、小学校の頃も遊びで撮っていましたから。ほんとに写真を撮ることが当り前の中で育ちました。僕が他の写真家と違うところがあるとすればそこかも知れない。最初から日常の中に写真があった。だから写真家に憧れたこともないし、志したというより、家業として始めたという感覚なのです。
中学、高校と剣道部に入っていたのですが、意外なことに写真をやっている人って剣道部出身がすごく多くて、この間も写真家3人でトークショウをしていて、「部活は何?」という話をしたら、3人とも剣道部だったという事がありました。写真には武術に近いものがあるのだと思います。相手との間合いや、関係性が第一で、それで瞬間に判断しないといけないから。「今だ!」と思ってから動いたんじゃもう遅いの。そういうところは武術に近いと思う。
高校卒業後、浪人して最初は普通の四年制大学に行ってから専門学校に行こうと思っていたのです。普通の大学生活ってすごく楽しそうに見えたんですよ。でも浪人中に父親の写真展を観て変わりました。それは父が普段撮っている家業としての写真の類ではなくて、表現としての写真で、当時僕が聴いていた80年代のパンクやニューウェイブとすごくシンクロしていて、父親の写真がP.I.Lの音とかにピッタリだったんです。当時僕はすごく音楽が好きだったので、バンドをやるような気持ちで写真ができるんだと思って、日本大学芸術学部に進みました。
日芸に入学した直後は、東京に、都会の文化の最先端に触れることができるというような期待をすごくしていた部分があったのですが、実際にはそうでもなくて、故郷の方が面白いなとか、地方にいながらも文化的に最先端を行っていた自分に気付きました。それに気付いたというのも大学に入ったからこそといえますが……。日芸では、演劇・映画・放送研究会に入って自主映画を4年間ずっと作っていました。学科の課題は最低限、卒業できるくらいにして、映画制作と仲間ができたのがよかったです。宮沢賢治の「注文の多い料理店」のように、どんどん無理難題が出てくる映画で、小笠原で宝探しをするという「宝島」という作品の監督をしたりしました。写真はあんまりやっていませんでした。仲間ができたというのが一番大きいです。飲んで大暴れして救急車が来たこともありますが、今となってはいい思い出ですよ。
伊島薫さんとの出会い
大学卒業後の進路として、最初は広告系の撮影プロダクションに入ったのですが、物撮りしかなくて、3カ月くらいで辞めてアメリカに渡りました。NYに行った時、言葉の壁とかはあまり感じませんでした。そういうのは慣れなんだなと思います。挫折というか、壁みたいなものを一番感じたのは、やっぱり最初に就職した時かな。仕事の内容がやりたいことと明らかに違っていたので。ファッション雑誌の「流行通信」に当時としては最先端でどこにもないような、見たことのない写真が載っていた。それが伊島さんの写真だった。この人すごいなと思って。
伊島さんを外から見た印象はセンスのいい人だという風に思ったんですけれど、実際近くにいると24時間写真のことを考え続けているんです。これだけ努力することで人は評価されるんだ、評価されるのは一瞬で華やかだけれど、もっとずっとやってるんだ、ということを体で分かって、今でも僕の中で生きている。それが学べたことが一番じゃないかな。今でも親交はあって、伊島さんのお誕生会を僕が開いたりしています。
あっという間の一日
撮影しているかどうかで、全く変わってきますが、起きるのは8時とか9時くらいで、事務所が10時スタート。気がつくと2時。もうね、6時間単位くらいで時計の針が動いている気がするんだよね。朝ごはん、昼ごはん、夕御飯、夜中の12時、もう寝ないとっていう感じ。はやいよ。歳をとると早くなる。一年も早くなるし。2009年6月に僕がオープンさせたレンタル暗室&ギャラリー「PiPPO」へは週に2、3回くらいの頻度で行きます。作品をそこで現像することもあります。レンタル暗室を使っている人と一緒に暗室に入ることもありますし、昨日もワークショップを手伝ってくれる人のお誕生日会だったので2、30人集まってみんなで飲み会をしたり、そういう事はすごく嬉しい。写真を通して人がつながったりとか。写真の楽しさを伝えるようなことがやりたい。
一瞬を永遠にする、写真の力
写真って被写体との関係性がよく出ると思うんです。何を撮るというより、何を撮っても「やっぱりその人の作品だね」と思われることができたら、それが一番すごいことだと思います。街を歩きながら、人物を撮るときや風景を撮るときも基本は一緒。いかに自分とシンクロ出来るかというのが大事。風景だったら自分が山になれるか、山を愛せるか、っていうこと。撮っている人の気持ちが写りやすい。写ると言うと心霊現象みたいで変だけど、撮ってる人の気持ちが写真を見た人に伝わる。まあ、それは作品といわれるものならみんなそうだと思うけどね。平面でも、立体でも一生懸命作ったものなら受け手に何か伝わるわけじゃない。それと一緒だよ。会心の一枚というのは撮った瞬間には分からないものです。すごく集中していると無我夢中で自覚がない状態になってしまうので。仕事で依頼された写真だと、条件を満たすとそれで完成しますよね。表情、露出、構図、背景などの条件が揃ったら完成。あとでベタを見て、あの時撮れたと思った写真はやっぱり撮れてる、これがいいって決めます。ほんとに一瞬、125分の1秒の中に自分の命が燃焼するような瞬間があったら、それはもう何も分からない。夢中の状態ですから。上がってきた写真を見ても分からないと思う。それが本当にすごい一枚だったんだと分かるには時間が必要だと思う。ああ、あれねって撮った時の感覚を思いだせるようなものではないと思うな。
これから
基本的に、仕事として撮影すること自体が作品になっていて、特に別の枠を用意してやらないといけないという事はないですね。仕事だから自分を我慢してやっているという事は一切ないです。毎日、その日にできることはやりきっているので、死ぬまでにこれだけはやりたい、これができるまで死ねないという事もありませんね。写真もそうだし、瞬間を生きるっていう事は125分の1秒のシャッタースピード、そこにどれだけ自分の持つエネルギーを注げるかっていうことだと思う。自分の持つエネルギーであったり、気持ちであったり、いろんな要素を詰め込めば詰め込むほど、125分の1秒が永遠になっていく。いい写真を見るとその前後の時間を感じることができると思う。たとえフレームに入っていなかったとしても見えてくるものがあると思うし、時間的にも空間的にもそのフレーム以上の広がりを感じて一瞬が永遠になる。それだけがすべてじゃないけれど、そういう瞬間を追い続けていくんだろうな。
プロフィール
平間 至
ひらま いたる
1963年宮城県生まれ。
日本大学芸術学部卒業後ニューヨークへ渡米、伊島薫に師事後 1990年平間事務所を設立。
塩竃フォトフェスティバルを主催、作品写真集に「アイ・ラブ・ミーちゃん」「no music no life」などがある。2009年レンタル暗室&ギャラリーPiPPO(ピッポ)を浅草にオープン。
*本文中の日時・役職・その他各名称等はすべて取材時のものです。