top of page

Chapter.04

京都シネマ代表 

神谷 雅子さん

 

“この先もずっと京都で映画の持つ多様性を伝え続けたい”

 

映する作品を選ぶときは、大前提として集客が見込めるかどうかを考えます。映画館を順調に機能させるためには、ビジネスとしての側面にも目を向けねばならないのです。しかしそれだけが基準ではなく、多様性というのが重要なキーワードになります。1つの物事には1つの価値しかないのではありません。上から見た形と下から見た形は全然違って見えるように、その作品が知らない世界を提示してくれる作品や、知ったつもりであることを違う角度から深く描いてあってより理解が深まるような作品には心惹かれます。1つの作品を上映するまでには、いろいろなパターンがあります。制作者から企画の段階からお話をいただいていて、完成したらぜひ上映させてくださいというパターンや、こちらが気になった映画について資料を送っていただき、その中から実際に映画を観て決めるというパターン。それからまったく飛び込みのような形でサンプルを送ってこられて、ぜひやってほしいといわれてやる場合などが代表的な上映形態です。営業に来られた方がいくら素晴らしいとおっしゃっても、言葉で説明を受けただけでは分からない。やはり自分で観て、これはすごく新しいアプローチだとか、すごく感動したとか、なにか残るものがないと決めることはできません。だからまず作品である、映画を観させていただくという事が最初にあって、上映が決まったら、いつの時期にどういう形で上映するのかという打ち合わせをさせていただく。

 映画は観る人によって捉えどころが違うもの。こういう風に観てほしいと押し付けるものではありません。ただ、私の観方と近い論評などがあれば積極的に掲示したりとか、専門家から観て、こういう風にみえるんだというレクチャーをしてみるというのは大事なことだと思います。私たちはパブリシティボードというものを作りまして、映画が紹介されている記事などを掲出したり、作品を深く理解していただいたり、作品世界に入り込める道筋、ヒントみたいなものをボードにちりばめるような工夫をしています。

 

こだわり

 

 京都シネマでは、音響と並んで、オープンなホワイエ(ロビー)も大きな特徴で、ここはチケットなしでエントランスまで入ってきていただける設計になっています。これは、行き慣れた場所が行きやすい場所だという思いから、リピーターとして何度も来ていただけるオープンな映画館でありたいという気持ちの表れです。近くに来たついでに寄っていただける、お客さまにとって自分の映画館、自分の劇場と思っていただければ幸せです。

音響設備についても設計段階からのこだわりがあるのですが、さらに映画に集中していただくためには、静寂が大事だと思うのです。繁華街にいるといろんな所に音があるじゃないですか。せめて映画を観る前は静かな環境を作り出して、暗くなれば予告編が始まり、そのあとに本編が始まる。その一連の流れを味わっていただきたいので、映画館内ではBGMを流していません。それから、映画を観ようと来られたお客様にとって10分ほど強制的にCMを見せられるというのは気持ちがいいものではないと思いますので、喉から手が出るほどやりたいのですが、CMは流していません。映画に集中していただける環境を提供することに専念した方が利益こそ少ないですけれども長期的に見ればプラスだと思うのです。お客様の目的と映画館の役割というものに忠実に徹するというか。本編と関係するようなものだったらいいと思いますけれど、基本的に予告編以外は流していません。最近はどこの映画館も導入されていますが、入れ替え制もそのひとつです。ひとつの作品を集中して観ていただきたいという思いからです。映画を観るために来ていただいているので、途中で入場する方がいらっしゃれば、その分、先に来ていただいているお客様の集中が削がれてしまう事になりますよね。だから原則として途中入場はお断りしているのです。2回観たいというお客様には、平日で混んでいなければ対応しています。あくまでも作品を集中して観ていただける環境を整える工夫として取り組んでいます。上映前にスタッフが挨拶をするのですけど、スタッフがなるべく生の声で伝えるという事を通して、劇場を身近に感じていただきたい。そしてお客様がどんな表情、雰囲気なのかを感じることでコミュニケーションしていきたい。さまざまな企画を続けていくことで京都シネマを広く認知していただけたり、映画館の敷居を低くする事につながっていけばいいなあと思っています。ユニークな試みといえば、ベルリンの動物園で育児放棄した母熊に代わって飼育員に育てられた小グマを題材にした、『クヌート』という作品を上映した時にホッキョクグマの生態についてよく知る、京都市動物園のホッキョクグマの飼育係の方に来ていただいて話をしていただきました。地球温暖化など環境の変化によって生きにくくなっているなかで、身近なところから京都という街に住む中で出来ることは何なのかという事を考えてみようという企画でした。セネガルのバオバブの木にまつわるドキュメンタリー映画『バオバブの記憶』を上映した時にも、植物園の園長さんに来ていただいて映画の上映前にバオバブにまつわるエピソードなどを話していただきました。希望者は映画の後、植物園へ見に行こう、木の前でも園長さん解説を聞こうという企画をやりました。京都府立植物園は日本の植物園の中でもたくさんバオバブの木を育てていて、しかも花を咲かせたこともあるそうです。そんな実績がある植物園は日本では2か所しかないそうですよ。作品に応じて継続的にこういった企画を続けていきたいと思っています。今では年間17万人くらいの方に来ていただけるようになりました。何回も来てくださる方のために会員制度を設けたりもしています。

 

これまでのこと

 

 学生時代には、映画をすごく好きで毎日映画を見ないと夜も日も暮れないというようなことではなかったです。あくまで普通の範囲で好きでした。京都に来る前に住んでいたのが、ベッドタウンだったので、街に行かないと映画って観られませんでした。京都に来たことによって、映画館がすぐ身近にあるという環境が嬉しかったです。就職を考えだしたのは4回生くらいからでしょうか。今は3回生からみたいですけれど、昔は司法試験を受験して将来はその道に進むんだとか、資格試験を受ける人は別として、3回生の頃から考えている人なんていませんでした。就職する時期になって、希望としては新聞記者になりたかったけれど、試験に落ちたので新聞社には入れませんでした。次どうしようかと考えたまして、やはり「書く」という仕事をしたいなと思い、京都の小さな週刊の新聞社にたまたまそういう職があったので、その会社に入社しました。本当は京都新聞とか大きな新聞社の記者になりたかったですが、努力が足りませんでした。ライターの仕事をするようになって、京都の伝統芸能から演劇などを含めた広く文化・芸能というものの担当だったのですが、その時には月に2、3本映画を観るように心掛けてはいました。当時は太秦の撮影所で、まだまだ映画を沢山作っていました。そこで俳優さんや監督さん、プロデューサーの方にお話を聞いたり、京都の映画史を研究されている方に連載をもっていただいたり、狂言芝居や人形劇に携わる人や、音楽家など京都のいろいろな方にお会いできました。京都の映画の現場もよく知る機会に恵まれました。その期間に自分の中に蓄積されてきたことが、今の仕事にすごく生きていると思います。

 7年間ライターの仕事を続けて、取材を通していろんな人と接したり、いろんな仕事を知り、人脈も得て、思ったのは私自身が何かを発信する側になりたいということでした。取材というのは相手あってのものですから。記事を書くことは負担ではなかったのですが、それだけをやっている事に物足りなさを感じ始めていたんです。その時に京都に今までにない映画館を作るんだというプロジェクトを進めてらっしゃる方がいて、自分の中にあった行き詰まり感を打破するためもあって、そこに転職をしました。それが京都朝日シネマという映画館をつくるプロジェクトでした。社会に出て8年目の事でした。

 

京都朝日シネマの閉館とアート系映画館存続の危機

 

 映画館の仕事なんて全く分からなかったのですが、配給会社の方たちをはじめたくさんの方にいろいろ教えてもらいながら、やりたい企画を実現させていきました。アイデアを提案し具体的に実現していく中で、そのアイデアがお客様の中に浸透していく手ごたえを目の当たりにできましたので、非常にやりがいはありました。これらのアイデアのいくつかは、今の京都シネマにも生かされています。2年後には番組編成の責任者である支配人になりました。京都朝日シネマのオーナー会社は東京と大阪に系列の映画館があり、そこで上映した作品は京都でも必ず上映してくださいということでしたので、まるっきり自由に作品選定はできなかったのですが、東京では1作品10週上映するとしたら、京都は2週ぐらいになります。公開本数の差というものがあるので、そのスキマを利用してある程度、上映作品を選ぶ幅がもてます。上映する作品を自分で選べるというのはすごく楽しかったです。

 ところが2003年6月に、京都朝日シネマが閉館と言う事になりました。京都からアート系の作品を上映する映画館をなくしたくないという使命感と言うのはおこがましいかも知れませんが、アート系作品を上映する映画館は京都に絶対必要で、誰かがやらなければならない。それは京都の中で十数年間アート系の映画を上映する仕事をやってきた私にしかできないと思いました。その頃、系列で運営していることに対しての限界なども感じていましたし、機会があれば何か新しい展開というものをやりたいなと思っていました。何か後ろ盾があったわけではありませんし、たくさん資産を持っていたというわけでもありませんでしたが、やるしかないと思いました。京都朝日シネマがなくなることについて、本当に皆さん残念がって下さって、それほどまでに残念がってくださるというのは、「なんとかしなきゃ」という決断をする上での後押しになりました。だから踏み切れましたし、「やるんだったら応援するよ」という友人や映画関係者の方たちの後押しというのは大きかったですね。前へ進むしかない。後戻りはしないという空気の中で、この映画館作りは始まったのです。

 

奔走の日々

 

 まずは場所探しから始まりました。どんな方にも来ていただけるように交通の便のいい、街の中心部というのが必須条件でした。何ヵ所か当たっていたところ、四条烏丸の旧丸紅ビル(現COCON烏丸)がリノベーション(再生)によって生まれ変わる計画があり、核テナントとして入らないかというお話をいただきました。このビルは1938年に建てられた京都の名建築の一つで、見学に行き、すばらしい建物だと思ったのでこの場所を第一候補にすることに決めました。

 それから次に問題になってくるのが資金のことです。映画館を始めるためには初期投資に莫大な費用がかかります。銀行の力を借りないと資金が用意できません。融資の交渉をしたりなども初めてのことでしたが、会社経営の大先輩に助言をいただいたり、さらに先方の銀行が京都の中心地で映画館を新たに始めるという事業内容そのものに興味を抱いてくださったので、融資をいただけることになりました。

次に必要なのは、保健所や消防署の許可でした。特に京都は重要文化財が多いので消防署の検査が非常に厳しいのです。「京都で許可を受けることができれば、どこででもできる」と言われるくらい細部まで決められているのです。その後、いろいろなハードルがクリアでき、2004年8月に工事が着工しました。着工してしまうと私としては、順調に工事が進むように見守るしかありません。工事が順調に進めば、開業日の目途も立ちますのでその日にあわせてスタッフの募集、上映スケジュールの調整、映画館の上映システムの設計、宣伝広報など開館後の運営構想を練っていました。

 建設にあたって一番重視したのは、音響でした。京都シネマはビルの3階にあり、上階層はオフィス。1階と2階はテナントです。遮音を完璧に行う事がここで映画館を運営する上で絶対条件でした。ならば遮音を完璧にするだけではなく、上質な音響にもこだわってみようと思ったのです。建物内にもう一つ建物を作るような構造になっていて、各シアターの壁や天井、床が浮いていてビル本体から独立した構造になっているのです。さらに京都シネマのすべてのスクリーンの裏には職人さんの工夫でバッフルボードというものが設置してあります。これがあるのとないのでは本当に音が違うのです。さらにスピーカー、アンプなど機材の一つ一つを選ぶのにも、劇場の容量や座席の配置などすべての要素をシュミレートして決めました。しかも予算内で。それが京都シネマのフルデジタル音響システムです。偶然ですが音響に携わって下さった方が、京都出身だったので、よい映画館を作りたいという一心で一致団結できた成果だと思います。

 京都朝日シネマの閉館が決まってから、8カ月。私にとって一番忙しい日々でした。そして2004年12月4日、京都シネマが開業しました。

 

仕事でのよろこび

 

年間150本ほどの作品を上映しているので、お客さんがたくさん入ってくださって、満員になればすごくうれしい。それから、この映画館をつくるにあたって、前にも言ったように一番気を使ったことが音響のことなので、実際に映画を作られた監督から「この劇場音がいいですね」と言われたらものすごく嬉しいです。いろんな業務がありますし、どの瞬間が一番嬉しいのかというのは一概には言えませんが、いろんな刺激や新しいことを感じる瞬間が多いので毎日楽しいです。上映するためにいっそ映画を作ってしまえば?と言われるようなことがあっても、今のところそこまでは考えていません。作るという経験がありませんし実際に作ってらっしゃる監督さんやプロデューサーさんに知り合いが多くいて、作ることの大変さが分かるから、作りたいとは思わないです(笑)。映画業界自体、この先どう変化していくのか見えにくく、非常に厳しい状況ではありますが、5年後も10年後もこの場所で映画館としてあり続けたいです。

プロフィール

神谷 雅子

かみや まさこ

1956年9月生まれ。

1980年立命館大学文学部卒業。週間京都民報記者、京都朝日シネマ支配人を経て、企業。2004年12月に京都シネマを開館。

株式会社如月社代表取締役社長。立命館大学産業社会学部教授。

*本文中の日時・役職・その他各名称等はすべて取材時のものです。

  • Facebook - Black Circle
  • Twitter - Black Circle
  • Google+ - Black Circle
  • Instagram - Black Circle
bottom of page